『つばさ考』





いつも肩を並べていた
共に高く飛びたいと願った

君よ、力尽きて立ち止まり、レースから降りるのなら
せめて後ろから 教えてほしい
僕の背にまだ翼はあるか


ずっと憧れていた
そこに辿りつきたいと願った

君よ、ぼくがふと後ろを振り向いてしまったとき
そこから見下ろして 教えてほしい
僕の背にまだ翼はあるか


‥‥そしてあなたと抱擁を交わす夜も
手さぐりで触れて 教えてほしい
僕の背にまだ翼はあるか





 キーを打ち終えて、 僕はマグカップを口に運んだ。
 ぬるくなったコーヒーをすすりながら、 窓の外を見る。
 もっとも、 見えるのは道路を挟んだ向かいの建物のコンクリート壁ぐらいだが。
 とかく、 地上には障害物が多い。

 ‥‥そのとき、 その窓の外のベランダで、 人影が動いた。
 僕は思わずコーヒーをブッと (キーボードにかからぬよう咄嗟に首をひねりつつ) 吹き出し、 窓に駆け寄った。 おいおい、 ここは3階だぞ?

 ベランダには、 天使がいた。
 金髪に白い衣、 中性的な容姿に羽をはやした天使。 比喩表現じゃなく、 本物だ。
 なぜそう言えるかというと、 実は以前にも会ったことがあるからだ。

 天使は、 ガラス切りで窓ガラスを丸くくりぬくと、 そこから手を突っ込んで鍵を開け、 部屋の中に入ってきた。 そして我が物顔で蛍光灯のヒモを引っ張って明かりをつけると、 文字通り地上のものとは思えないような美しい声でいきなり歌い出した。


  ♪はじめてのアコム はじめてのむじんくん
   ランランランラララララ‥‥



「──いったい何の用だ」

 僕がそう聞くと、 天使は歌うのを止めて、 言った。

「どうです? あらためて冷静に聞くと寒いとは思われませんか?
 仮にもこれから街頭金融に借金しにいこうというのに、 ランランランじゃないだろ、 という話ですよ」


「そんな風刺と笑いを交えたどうでもいい話は、 日記系サイトにでもアップしておきやがれ」  僕は吐き捨てるようにそう言った。

 しかし天使はまったく意に介する様子もなく、 こう続けた。

「アコムに限らず、 とにかくどれもこれも歌ってみたり踊ってみたりポーズを決めてみたり、 人間の感性とは一体どうなっているんでしょうね。
 さておき、 そういったわけであなたに貸していたものを返してもらいにきたんですよ。
 ‥‥そう、 あなたの背中の、 その翼です


 この翼は、 誰にも見えない。
 けれどもこの天使にはそれが見えることを、 僕は知っていた。

「だめだ。 まだ返せない」

「やれやれ、 そう言うだろうとは思っていましたが、 まだ引きずっているんですか。
 あなただってとっくに気付いているはずでしょう」


 天使は、 もう一度、 僕の肩の後ろを指さした。

「その翼では、 飛ぶことはできない。
 あなたはただ重りを背負って歩いているのも同然なんですよ。
 今の世の中、 何も空を飛ばなくたって、 電車やタクシーに乗れば愛する人のところに行けるのに。
 翼なんて‥‥それも、 飛べない翼なんて必要ないでしょう」


「だめだ。 地上には、 障害物が多すぎるんだ」

「“高み” などに到達しようとしたところで、 意味はありはしませんよ。
 そこには何もないから、 こう呼ばれているのです── 空、 と


「‥‥‥‥」

「昔、 道端で泣いているあなたにその翼を貸し与えたころから、 あなたは何も変わっていない。
 あなたはずっと渇望している。
 “それ” がこの世に確かに存在するんだと証明するために、 あなたは自分の手で “それ” を作ろうとした。
 自分が得られなかったものを偽造して周囲に振りまいた」


 そうして天使は、 今度は僕の部屋の片隅を指さした。

「さあ、 その弓矢も返しなさい。
 あなたの指先はもうズタズタで、 弦も血に染まっているというのに」


「だめだと言ってるだろ。 これで三度目だ」

 人は誰でも弓や銃を手にしている。 けれど僕には、 皆のように相手の急所を外す腕がない。
──だから矢はキューピッドの矢でないと困る。

「しかしそれはしょせん偽物。
 あなたは周囲の誰も信じてはいない。
 だからそんなことができるのです」


 そう言われれば、 そうなのかもしれない。
 裏切られることを最初から苦にしなければ、 無償の愛を注ぐことなど簡単だ。

「皆が長い年月をかけ、 隣人たちと日々を積み重ねて到達するところに、 あなたは一気に駆け上がろうとする。
 あなたを本当に必要とする人がそばに現れても、 あなたは上しか見上げない。
 ‥‥嗚呼、 この傲慢さよ!
 さあ、 ここにおいでなさい。 その重い翼を、 神から賜わりしこのチェーンソーで切り離してあげます」


 僕の出すSOSはあまりに尊大で、 そしてあまりに素直であからさますぎて、 誰にも気付いてもらえない。 きっと、 そういうことなのだろう。
 だけど僕は自分が特別だとは思わない。 好きでも嫌いでもなく、 僕は僕だ。

「‥‥怖がることはありません、 このオペは無痛です。 血も少ししか出ませんし、 次の日からお風呂にも入れます」

 再び、 さあと詰め寄る天使の肩にそっと手をおいて、 僕は笑ってこう言った。

「大丈夫だよ、 僕は」

 その瞬間、 天使は消えた。

 僕は壊された窓からベランダに出て、 外を眺めた。
 あの天使は知らないんだ。 翼は、 はばたくだけのものじゃないことを。

 大昔、 獣が鳥になろうとしはじめた頃‥‥まだ自由に飛べない彼らは、 出来そこないの翼を広げて紙飛行機のようにフラフラと滑空していた。


 ──地上には障害物が多すぎるから。


 いつか、 この足で高みに辿りついて、 そこから君の住む街の灯が見えたなら。



 君のところに飛んでいくよ。 風に乗って、 この翼で。